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木枯らし紋次郎は大衆の夢(下)《2》
ヤクザは、賭場を開いて、素人の旦那衆から寺銭(ショ場代)を巻き上げ、博打を打たせてしこたま儲けるのだが、そうおいそれとスッテンテンにして帰さない。客を無一文にしてしまうと、誰も恐ろしがって近づかないし、賭場が成り立たない。だから適当に機嫌良く「丁半博打」に勝たせてやる。
その伝統が今も、パチンコ、競馬、宝くじなどにある。総体としてはヤクザがガッポリ儲けるが、ところどころで素人にも夢を見させるのだ。
ついでに言うと、寺でご開帳したから寺銭と言った。神社でやっても(神仏混淆だったから)寺銭と言った。本当に江戸時代の寺は悪辣で、人身売買の管理をした。庄屋とともに「宗門人別帖」を握って、庶民を売り飛ばした。これは単なる異教徒(クリスチャン)を取り締まる台帳ではないというのが、八切止夫の説である。
このことはすでに「浄土真宗の妄言」(07年5月16日)や、「アイヌの来し方(5/5)」(09年1月10日)で「庭子」のことを書いた。
今も田舎に行けば、江戸時代から続く、分不相応な広大な敷地に豪奢な寺院が建っている。あれは人身売買と、賭場の所場代で儲けた証拠だ。坊主が人格者などとは真っ赤なウソである。
明治維新で寺院の打ち壊しが発生したのは何故だったかわかるでしょう。昔年の怨みが爆発したのだ。
エッセイストの五木寛之が、テレビ朝日の番組『百寺巡礼』を続け、書籍にも(カネにするために)巡礼の感想をまとめて発表している。全国各地の寺院を回り、日本人の原風景・原点とは何かを見つめ直すという主旨らしい紀行番組であった。
バカバカしいから見なかった。なにが日本人の原風景だ。オノレも仏教の実像を知らないし、大衆も知らないから、インチキ性がかいもくわかっていない。僧侶とは、人を騙してあの手この手でカネを巻き上げる卑劣漢である。時代によって違うけれども、今は騙しのために、いかにも高潔な生きざまを説いてみせているだけのことだ。
五木寛之が、現在の仏教に何か精神的なものを求めてみたいというなら、まずあの愚劣な戒名なるもので大衆を騙くらかしていることを、どう説明するのか聞きたいものである。
長谷川伸にしろ、笹沢佐保にしろ、小説だからカタルシスを読者や観客に与えねばならないので、ヤクザの主人公は実は人情に厚いとか、義侠心があってとかいう物語にする。高倉健がさんざん主演した東映のヤクザ映画もそうなっていた。
それで大衆は、ヤクザにも仁義があって…と誤解する仕儀となった。
また、その大衆のイメージを利用して、今は在日がいっせいにヤクザになって稼いでいる。現今の実際のヤクザは、もはや義理と人情の世界でもなんでもない。
現今の社会は、官僚、政治家、大企業、ヤクザの仕切る世の中である。ヤクザがそれなりに、体制に深く関与している。その原基形態は、江戸の幕府直轄地のしまりない統治にあった。
八切止夫の説で紹介したが、幕府はヤクザを使って街道筋を見張らせたのであった。自分たちは一銭も経費をかけずに、民が居住地から脱出するのを阻止しようとした。
ところがヤクザは、いわゆる差別されて居住地に押し込められていた民草を、平然と江戸や大阪に脱出させることになった。脱出と街道通行を見逃すための銭をとって儲けるようになったのである。
だから何の産業もなかった江戸が、一気に人口が増え、100万人の大都市になってしまった。
土地に抑えつけられていた庶民にとっては、まさに(同族としての)“義理”と、過酷な身を救ってくれた“人情”であった。そこから、ヤクザは「義理と人情」と言われ、その庶民感情を基にして、小説家たちがヤクザをヒーローとして扱うようになったのではないか。
こうやってヤクザはカネになる、という事実が定着し、ヤクザもいわゆる「定職」となり、権力者も、役人も、商人の旦那も、寺も、興行師も、なんだかんだとヤクザを必要として行く。
わたしはとりたててヤクザの研究はしたことがないのだが、ヤクザと、マフィアと、支那の青幇(チンパン)・紅幇(ホンパン)などの秘密結社とでは、その成り立ちが相当異なるのではないか。
ただのカンでしかないが、日本のヤクザは体制内の小間使い的に使われたけれど、マフィアや支那ヤクザは、体制外で誕生しつつ体制と組むようになったもの、という印象である。
であるから、日本のヤクザの延長に警察がある。明治維新で改革はあったが、素性の悪さは博徒ゆずりなのではないだろうか。
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